ホーム > レーシックの基礎知識 > レーシック基本編 > レーシックの歴史

[PR]レーシック症例実績125万件、患者満足度98.6%、クチコミ1位の病院はコチラ

レーシックの歴史

近視手術の歴史は、日本で始まった――サトウズ・オペレーション

「外科手術で近視を治そう」――革新的治療の基礎理論は患者がもたらした

目の屈折異常にたいして、メガネやコンタクトレンズなどの装具品でなく、手術で根本的に治療をしようという最初の動きは、早くも19世紀末にヨーロッパで起こりました。乱視を矯正する目的で、角膜をメスで切開する手術がおこなわれ始めたのですが、残念なことにこの治療法はあまり人々に価値が理解されず、数十年もの間、忘れ去られてしまいました。

この技術にふたたび光を当て、さらに発展させた手法を実現したのが、順天堂大学の佐藤勉教授でした。

医学の発展の歴史にはしばしばみられることですが、佐藤教授が画期的な手術を開発したきっかけは、意外な症例との出合いでした。1936年、角膜の裏側にある膜が断裂してしまう病気にかかった患者さんの治療を受け持ったところ、その傷が治った後、患者さんの視力が病気の前よりよくなったのです。これは驚くべきことでした。

「人体の不思議」が指し示した新しい治療法

その女性患者さんは「昼寝から目を覚ましたら、片方の目が見えなくなっていた」と佐藤教授に訴えました。診察すると、たしかに視力は著しく低下していますし、角膜は浮腫をおこして真っ白になっていました。原因を調べると「円錐角膜」という病気でした。

この病気は、角膜が円錐状に飛び出した形に変形してしまうものです。かかる率が1,000人にひとりですからそれほどまれな病気ではありませんが、原因は不明、現れる症状もたいへん多様で、予後を見極めるのもなかなか難しい病気です。

先の女性患者さんのケースでは、この病気の進行プロセスで、角膜の裏側にあるデスメ膜が断裂を起こしたのですが、2カ月後にこの傷が修復するとともに、視力が病気以前よりよくなっていたのです。さらに佐藤教授は、立て続けにこれとそっくりなケースをもう1例、経験しました。

そこで「これは偶然に起きたことでなく、広く一般に起きる現象なのではないか」と推察し「ならば近視や乱視の治療のため、人為的に角膜の裏面を切開して、角膜の形状を修正してみよう」と研究に乗り出したのです。

世界を驚かせたサトウズ・オペレーションの完成

佐藤教授は試行錯誤の果てに、角膜の前面と後面を放射状に切開する治療法を完成させました。そして実際に手術を受けた患者さんたちは近視や乱視が大きく軽減され、見えにくい不自由な生活から次々と解放されたのです。1950年には佐藤教授の論文がアメリカ眼科学会誌に掲載され、世界に華々しくその成果が知られることになりました。

十数年を経てあきらかになった「画期的治療」のほころび

しかし後になって、たいへん残念なことが判明しました。術後十数年を経て「水疱性角膜症」という合併症をひきおこす可能性が高いことがわかったのです。これは細胞の数が著しく減ってしまったことで起こる病気です。

実は手術を開発した当時、「角膜の内皮細胞は再生しない」「成人期以降、内皮細胞の数は年とともに減少する一方で、増えることはない」ということは、世界中の最先端の研究者にも知られていませんでした。

今でこそ医学の常識ですが、当時はその知識がなかったために、内皮切開の手術がおこなわれたのです。その結果、患者さんたちは「加齢による細胞の減少」に「手術による細胞破壊」が加わり、十数年を経て、細胞数の減少による病気が現れたのです。

近視の外科治療は忘れ去られ、時代はコンタクトレンズへ――

こうして「サトウズ・オペレーションは失敗だった」という評価が定着するとともに「近視の治療で手術などとんでもない」という世間のムードができあがっていきました。もともと目の手術は恐怖感を惹起しやすいことも影響したのか、外科手術を避けようという風潮はたいへん根強く尾を引き、また80年代にはハードコンタクトレンズが台頭したこともあり、近視手術はごく近年までおこなわれませんでした。

しかしこの間に、欧米では近視手術を発展させる研究が、活発になされていたのです。

レーシックの歴史:関連記事

レーシック基本編

眼科・レーシック医院を探す

地域を選択

治療内容を選択








  • レーシック専門医院 総合ランキング